はじめまして、まこです。
このブログにお越しいただきありがとうございます。
このブログが、
あなたの人生を少しだけ変える。
そんなきっかけになれたらいいなと思います。
私のことを少しでもよく知ってもらえればと思って
プロフィールを書きました。
読んでもらえると嬉しいです。
Contents
はじめに
私は今、二人の子どもを保育園に預けながら
共働きをしている母です。
フルタイムで働きながらも
自分だけの時間を楽しみ、
子どもたちのためにも思う存分時間を使うことができて
充実した生活を送っています。
以前は研究職で働いていて、
調査や学会で海外を飛び回る生活をしていました。
今は、海外の教育事情について情報収集をしてレポートをまとめたり、
プログラムを駆使しながらデータ分析をしたり、
事業企画や評価を担当したりしています。
繁忙期は夜遅くまで残業をすることが多い同僚たちのなか、
仕事をサクサク終わらせ定時退勤を死守しながらも
評価は上位5%を維持できています。
子どもたちも明るく素直にすくすく育ってくれていて
仕事も家庭も楽しく充実しています。
私の今の生活は、
- 子どもたちが行きたいといったらいつでも一緒に動物園へ行く
- 子どもたちがやりたいといった習い事は即金で申し込めて、仕事を気にせず送迎してあげられる
- 休日にはピクニックに出掛けて思いっきり遊んだり、思い立って旅行にでかけたり
- 子どもたちとたくさん話して仲良く過ごし、いつもお母さん大好き!と言ってくれる
- 好きなだけ大好きな読書を楽しめる
- 自分の知識がどんどん増えて見える世界がどんどん広がっていくのが楽しい
- 仕事の改善点や新たなアイデアを提案したら即採用される
- 周りが残業するなか、サクサク仕事を終わらせて定時で退勤
- 年収数千万から億越えの起業家を知り、価値観がどんどんアップデートされていく
- 気が向いた時にカフェに行き、じっくり学びの時間を楽しむ
今でこそ、仕事も子育ても思いっきり楽しんで毎日充実した日々を過ごしていますが、
少し前までは自分の時間なんてまったくなく
いつも疲れ切ってイライラしているワーママでした。
- 残業続きで子どもは保育園に長時間預けっぱなし
- 毎日家に帰ると疲れ切って笑う気力もない
- どんどん自分のための時間がなくなっていく
- どんどん心の余裕もなくなっていく
- 子どものちょっとしたことでイライラしてしまい叱ってしまう
- 子どもが体調が悪かったり甘えたい時も仕事が気になってしまう
- 長時間労働から解放されたい
- 長時間労働しなくてもいいお金の自由がほしい
- 働き方を変えたいけど、そもそも考える余裕がない
そんなふてくされた気持ちで過ごしていました。
そんな私が前向きに自分の人生について考えられるようになり
自由な時間を確保できるようになったのは、
ネットビジネスに出会い経営者のマインドやビジネスに関する知識を学んで
素直にそれを真似て行動したからです。
ネットビジネスでは、
自分の経験や知識を必要とする人に教えてあげることでお金を得る仕組みを
オンライン上のツールを使って構築していきます。
仕組みを作ってしまえば
私自身が動かずとも稼いでくれる、
いわばもう一人の自分みたいなものです。
自分以外でできる作業はどんどんツールや人に外注してしまえば、
私自身は、何をやるか考えたり、どんなツールを使うか、
誰にたのむかを考えるだけでよくなります。
ツールや外注にかかる費用を払うだけで、
収入と自由な時間の両方が手に入るようになります。
私はこれまで、公務員や会社員としてしっかり働き、
お金を得ることが自立した生き方だと思っていました。
でもそれは、誰かの理念や経営方針に従って労働しているだけ。
もし、その方針が変われば従わないといけないし、
大きなものに依存しているだけでした。
また、お金をもらう代わりに自分の「時間」を提供しているので、
収入を増やそうとすれば自分の提供する「時間」を増やすしかありません。
そうなると、自分のための時間がどんどんなくなっていく。
なんだか今の働きかたは自分の理想と違う、
とうすうす感じていましたが、
ビジネスを学び始めてから、
「自立していると錯覚しているだけだった」とわかりました。
このブログのコンセプトは、
キャリアと子育てとの両立が大変で働き方を変えたいと思ってもやもやしているワーママが
時間とお金の制約から自由になって、
自立した幸福度の高い暮らしを手に入れること。
自立して自由に生きる母が
子どもたちの明るい安心できる居場所を作り、
そんな母と過ごすことで、
幸せでのびのびと暮らす子どもは
自立した生き方を学んでいく。
そんな未来を作ることです。
私がどういう人間なのかを
より理解していただいたほうが
ブログでの発信を理解していただけると思うので、
私の過去についてこれから共有します。
私は小さい頃からお金や他人の評価に縛られて生きてきました。
だからこそ、早く自分で稼いで自由になりたかった。
でも、自分のやりたいことがわからず自信ももてなくて行動できない、
周りを羨んでばかりいる臆病な人間でした。
大人の顔色をうかがいながら生きることを覚えた子ども時代
私の母は、私が幼い頃、病気で亡くなりました。
治療のためにひとり実家に戻った半年後のことでした。
当時の私は4歳。妹はたった2歳でした。
小さい頃の記憶は朧げですが、
母が突然いなくなった朝のことは今でも覚えています。
朝、目が覚めると、ご飯を作っているはずの母がいない。
リビングでは、父と妹がソファに座ってテレビを見ている。
「お母さんは?」
その時、父がなんと答えたのかは覚えていません。
しんとしたキッチンの床が冷たくて
布団に戻り座り込む。
次の記憶は、大きなトランクを抱えて
家を出ようとするところ。
一人では姉妹を育てられないと、
父は祖父母の元へわたしたちを預けたんです。
祖母のことも祖父のことも大好きで
いつもなら遊びに行くのは嬉しいはずなのに、
なんとなくその日はいつもと違う。
私と妹は、その日から祖父母の家で暮らすことになりました。
祖母は、おおらかで明るく楽しいことが大好き。
趣味にボランティアにと毎日飛び回る元気な祖母でした。
好奇心旺盛で、たくさん友達がいて、
美味しいもの食べたり、
お友達と出かけたりすることも 大好き。
そんな祖母の自由気ままな生活は、
私たち姉妹と暮らし始めてから 一変しました。
「この歳になって孫の面倒を見るんだから大変ねぇ」
「そうなのよ。お出かけもできないわ」
そんな、近所の人との立ち話。
きっと何気ない会話だったのでしょう。
でも、まだ小さかった私には、
ぐさっと突き刺さりました。
大好きだったおばあちゃんにとって
私たちは邪魔になる存在なんだ。
「でも、母親がいないから仕方ないのよねぇ」
「まだ小さいから大変ねぇ」
そして最後には必ず、
「まこちゃん、おばあちゃんの言うことしっかり聞いて良い子でいなさいね」
うなずく私。
おばあちゃんは面と向かって言うことはなかったけど、
お母さんもいなくて、お父さんもお仕事でいなくて
しかたなく面倒見てくれてるんだ。
本当は私たち、邪魔なんだ…。
良い子にしなかったら、
おばあちゃんにも置いていかれちゃうかも。
そんな不安がむくむくとわき上がり、
会話が繰り返されるたびに刷り込まれていく。
気づけば毎日、祖母や父の顔色をうかがってから動き、
少しでも機嫌が悪くなりそうになるとこわくて口を閉じる。
常に嫌われないかびくびくして、肩に力入れて。
いつも気を張って、落ち着かない。
そんな過ごし方をするようになっていました。
他人の顔色を伺いすぎてやりたいこともわからなかった学生時代
早く一人で生きていけるようになりたい。
誰かに養ってもらわないと生きていけない
惨めな自分から解放されたい。
そんな気持ちは、成長するにつれてどんどん強くなりました。
大手企業に就職して将来安泰な人生を手に入れる。
公務員でもいい。
そんな価値観が正しいと疑わない人でした。
祖母は、そんな父親を説得して、
歌ったり踊ったりが大好きだった私が
ダンスと歌を習えるようにしてくれました。
習い事は、私が親から離れてホッとできる時間だった。
ダンスも歌も楽しくて、毎週楽しみで仕方なかった。
ミュージカルの舞台に初めて立ったときの感動は今でも覚えています。
誰もが憧れる女の子になって
舞台の上を自由に動き回る。
そしてそんな自分をお客さんがみんな見ている。
ミュージカルの役をやっているのに、
肩の力が抜けて自分自身に戻れるような、不思議な感覚。
大嫌いだった自分から離れて自由になれた気がした。
でも、中学生になると、
塾に入ることを理由に辞めるよういわれました。
まだ続けたかったけど、
「そんなんで食っていけるのは一握りだからやめとけ」
「良い大学に入って良い会社に入れ」
そんな返しで聞く耳を持たず。
最後には、
「そんな金は出さん!誰が養ってやってると思ってるんだ」
と青筋立てて怒鳴られる。
友達と遊びに行きたくても
「遊んでばかりいないで家で勉強しろ」
と、許してもらえない。
だんだん
父が怒りそうなことは
最初から諦めるようになりました。
父とは顔を合わせるのも嫌だったので
父が家にいる週末は、
図書館で勉強する、と言って外出。
「勉強する」と言っておけば何も言われないのでね。
もちろん、それで外出しても
お金もないし
他に行くあてもないので
本当に図書館に行くしかありません。
中学校も高校も、
別にやりたくもない、楽そうな部活に入って
家に帰るのができるだけ遅くなるようにしたり。
こんな窮屈な家から逃げ出したい。
早く家を出たい。
早く自由になりたい。
そんなことばかり考えて過ごす日々。
親の顔色をうかがいながら自分の行動を決めることばかりしてきたので
いざ、行きたい大学や学部を決めるときになっても
どうやって選んだらいいかわからない。
私の望みは、
早く家を出て一人で暮らすこと。
そのために必要な費用を稼ぐこと。
それだけでした。
遠くの大学に行って一人暮らしをしたかった。
でも、何もできない私では、
仕送りをもらわないと生きていけない。
きっと、結局またいろいろと口出しされる。
そもそも、行きたいっていったって
どうせ反対される。
でもなんの力もないただの高校生に
そんなことができるわけがない。
自分のお金があれば、
親の顔色なんて気にせず
やりたいことができるのに。
家を出て行くことだって、
買いたいものだって
全部自由にできるのに。
周りのともだちはみんな、
行きたい大学に行って、
好きなようにのびのびと生活している。
だったら大学を卒業するまで我慢して、
就職して稼げるようになってから
さっさと家を出ていこう。
私なりに精一杯前向きに考え、
家の中に荒波を起こさないように一生懸命勉強して
地元の国立大学に進みました。
大学に入っても状況はたいして変わることもなかったけど、
バイトだけは許してもらえたので
授業の合間にバイトに精を出す日々。
サークル活動を楽しむおしゃれな友人たちに会っては
楽しそうでイキイキしているみんなが羨ましく見えて。
どんどんひねくれていく自分がますます嫌いになって。
でも、どうせ私にはムリ
と諦めぐせがついてしまっていて、
やろうともしなくなっている自分がいました。
やっと楽しいことを見つけて自立したと感じた大学院時代
こじらせ女子のまま大学生になったまこ。
大学に入っても相変わらず自分のやりたいことがよくわからず
将来何したいんだろう、ともやもやする日々を送っていました。
大学3年生で配属された研究室は、
いろんな森林の調査をする研究をしていました。
車も通らない山道を
調査道具がたくさん入ったリュックを担いで歩き、
斜面にしがみつきながら
木を測ったり、土を掘ったり。
かなりの力仕事だけど、不思議と楽しかった。
全てが初めての経験ですごく新鮮で、
夢中になって取り組みました。
自分の強みに気づいたのもその頃です。
「どこにいってもすぐに仲良くなるよね。いてくれると交渉が捗って助かる」
あるときそんなことを言われました。
言われるまで気づかなかったけど、
毎回メンバーが入れ替わる調査チームで行動しても
地元の人たちと同じお酒の席にいても
私はすぐに仲良くなってかわいがってもらってる。
調査メンバーの気持ちや場の空気を自然と読んで、
行動していたみたいです。
いままで、
「真面目だね」
としか言われなかった大学生時代を送っていた私にとって、
こんなことでほめられた、というのは
大きな発見でした。
こんな私でも、誰かの役に立てるんだ。
ほんの少しだけ自分のことが受け入れられた瞬間でした。
そこから、いろんな調査に協力することで
小さな信頼を積み重ね、
自信を少しずつつけていきました。
みんなでやり遂げる達成感と充実感と。
体力は使うけど全然苦じゃないし、楽しい。
私にはひょっとしたら合っているのかも。
ハタチも過ぎてからやっと楽しいと思えることを見つけて
小さな自信を手に入れた私は、
だんだん、もっと続けたい、
そのために大学院に進みたいと
思うようになります。
でも、大学院に行くのにはお金がかかる。
自分で稼げるようになるのがまた遠くなる…。
せっかく見つけたやっていて楽しいことを手放したくない気持ちと
早く自立したいと思う気持ちで揺れ動きます。
そんな私に、先輩がアドバイスをくれました。
「奨学金だったら成績次第で返還免除もあるよ」
「えっ、奨学金返さなくてもいいんですか!?」
養ってもらうしかないと思い込んでいた私にとって
目から鱗のアドバイスでした。
調べてみると、大学院でもらえる奨学金の額は
学費を払うにはギリ足りる。
バイトで稼いだお金もだいぶ貯まってる。
贅沢しなければ、
自分がやっと手に入れた居心地の良い居場所と
自立した生活を両方手に入れられるかも。
切り詰めた生活にはなるけど、
もう養ってもらわなくても、一人で生きていけるかも。
やっと見つけた自分のやりたいことを
諦めたくない。
大学院手続きのギリギリまで、どうするか悩みました。
調査に夢中で就活もまともにしてこなかったし
他にやりたいことも見つからない。
…思い切ってやってみようか。
世間から見たらまだ学生。
大学生の続き。
でも、私にとっては、初めて親から離れた瞬間。
待ちに待った、大きな一歩でした。
大学院では海外調査も任せてもらえるようになり、
ずいぶんいろんな国へ行きました。
自分の知らないあたらしい世界。
空港に降り立った瞬間から匂いも気温も空気も違う。
英語も全く通じない、現地の人ですら通訳がいるような土地で、
言葉も通じない全く文化も違う人たちと一緒にやる調査。
お互いに身振り手振りも含めて作業を確認しあい、
ミスをした時には、顔を見合わせて笑う。
夜は初めて見る料理を食べ、お酒を飲み 異国の歌を聞く。 (そしてお腹を壊す)
もちろん大変なこともたくさんありました。
約束していた協力者がいつまでたってもこない、とか、
調査をさせてもらうために、現地のお役所へ交渉、とか。
空港でストライキに鉢合わせして帰れなくなったり…。
調査中もトラブルはつきもので
気づいたら毒ヘビが目の前に現れてフリーズしたり、
(15cmの距離で見つめ合いました)
アリが目の中に噛みついてそのまま現地の病院へ行ったり
(このアリまだ生きてるよ!とお医者さんは大笑いだった)
調査する機械が壊れた時には、自分で分解してハンダ付けもやります。
(日本の女性はバッグに工具を入れてるのか?と真顔で聞かれた)
でも、それをひとつずつやり遂げていくのが楽しくて、
できたらまた一つ自信に変わる。
自分の知らない国にいって、初めての風を感じて、
いろんな国の人たちと出会って
束の間でも心を通わせることがすごく楽しかった。
私は海外に行って、あたらしい世界をみるのが好きなんだ、と気づいた。
全てが新鮮で楽しくて本当に幸せだった。
気づいたら、修士課程、博士課程と進んで、研究者になっていました。
成果を出さなきゃ、という焦りと
安定した職につかなければ、というプレッシャーはあったけれど
自分がやりたいことができている。
自分の人生をちゃんと踏みしめて歩いている感じがして
とても心地よかった。
自分のキャリアの不安をかかえたままのワーママ研究者生活
博士号をとったあと、
運良く期限付きの研究者として雇ってもらえて
私はしばらく研究を続けていました。
ただ、収入はすごく低くて、慎ましく暮らしていました。
いわゆるポスドク。
高学歴ワーキングプアと呼ばれる、
高学歴だけど低収入、
NHKスペシャルにも取り上げられるような存在。
同期や先輩は研究が大好きで、
目をキラキラさせて研究していたけれど
やっぱり不安定な雇用で、給料も安かった。
1年任期で雇われていた先輩は育休が取れず、
産後2ヶ月で仕事に復帰。
上司も理解があり、勤務時間は比較的自由だったので
在宅で研究をしていましたが、それでも大変そうでした。
その頃から、少しずつ違和感を感じるようになっていきます。
楽しい仕事を続けて、お給料ももらえるようになったけど、
またすぐに職探しを始めないといけない身分。
私、ほんとうに自立できてるんだろうか…。
私自身も結婚して一人目を出産したことで、
その不安はどんどん膨らんできました。
夫は公務員で安定した収入があるとはいえ、
もう養ってもらう立場にはなりたくない。
子どもにも将来、お金がかかるようになる。
早く業績を出して就職先を探さなければ。
出産や育児をしているからといって
足踏みしているヒマなんてない。
そんな焦りがものすごくて、
気持ちが空回りしていました。
月に一度は熱を出す子どもの世話、
慣れない離乳食作りや布オムツの洗濯(保育園では布オムツでした)その合間にだっこ、だっこ、だっこ…。
論文を読むのも、文章を書くのも集中できず、
今日もできなかった、これもできなかった
と思うことが増えて
自己肯定感がダダ下がりでした。
私が研究を続ける一番のモチベーションは
海外・国内含めていろんな調査地に行くこと。
出産後も、仕事に復帰したら、いろいろ行くつもりだった。
でも、夫は超激務の職場で子育てはワンオペ状態。
夫の実家は遠方で、
母のいないわたしはあてにできる人もおらず
出張のたびに娘を連れていくか
置いていくなら、夫一人で対応できそうなのはいつか
あるいは世話をしてくれる人を探して預けるか
それがいつも悩ましい問題でした。
あれこれ考えて段取りを決めても
娘が体調を崩すと預けられなくなったり
予定が変わるとまたその調整…。
ただやりたいことを続けたい、それだけのはずだったのに、
そのための準備がものすごく大変で。
仕事に対するモチベーションが
どんどん下がっていくのが自分でもよくわかり、
1年もすると
仕事をするのが苦痛になっている自分に気づきました。
いつも次のポストを心配するのもそろそろ疲れた。
もういいかな。
しょっちゅう、知らない保育園に預けられる娘も
ストレスが多かったことでしょう。
出張後は体調を崩したり、イヤイヤが激しくなったり
今思うと彼女なりのSOSだったのかもしれません。
娘のためにも
仕事を変えて落ち着いて生活できるようにしよう。
そう考えるようになり、転職を考え始めました。
やりたいことがやれたとしても、
お金の不安と時間の自由がなければ幸せじゃない。
そう気付きました。
安定収入は得られたけど時間の自由はなかったフルタイムワーママ生活
それまで必死に握り締めていたキャリアを
手放すのは正直に言うと悔しかった。
新しい場所でも、自分の経験をいかせる仕事がしたい。
タイミングよく、
それまでの経験を活かせる仕事が見つかりました。
勤務時間も固定、定時退勤ができたので、
転職後は生活が規則正しくなりました。
残業もほとんどなく、
残業してもちゃんと手当がつく。
海外・国内含めて出張することはないのは少し寂しいけれど、
いつも娘と一緒にいてあげられる。
そしてやりがいのある仕事を任せてもらえるようになり
責任のある仕事も増え、
毎日の仕事が楽しくなった頃。
二人目を授かり出産。
早く仕事に戻りたい、と思うほど
やりがいを感じていた私は
出産から4ヶ月で復帰しました。
……なめてました。
なにこれ、上の子と、全然違う。
赤ちゃんは保育園でミルクを飲んでくれなかったので、
毎日、お昼休みになると職場を飛び出して
保育園まで授乳に通い、
午後の仕事開始と同時に職場に戻る。
ちょっと仕事したと思ったらすぐにもうお迎えの時間。
(水分が取れないので
預かってもらえるのは長くて3時間だった)
へとへとになって帰ったら
泣き叫ぶ赤ちゃんを抱っこしながら
なんとか娘のご飯を作り、
自分はゆらゆら揺れながら立ったままご飯を食べる。
赤ちゃんを寝かせたら
待ってましたとばかりに娘が飛びついてきて、
米袋2つ分の重さを背中に乗せたまま
食器を洗ったり、洗濯物を畳んだり…。
やっとベットに入ってうつらうつらしたら
もう次の授乳の時間…。
2ヶ月近くそんな生活を夢中で続けて
やっとリズムを掴めてきたかな、という頃に、
緊急事態宣言。
私は在宅勤務になり、
子どもたちも登園を自粛することになりました。
夫はいつも通り出勤していくため
子どもの面倒を見ながら同時に仕事もするという
訳のわからない状態に。
それでもやるしかない。
もう無我夢中ってこういうことを言うんだな、と思います。
忙殺され過ぎていて、
この時期の記憶があまりありません。
断片的に蘇るのは、
抱っこ紐で赤子を抱えてゆらゆらしながら
参加したオンライン会議。
授乳のタイミングが重なってしまい、
赤ちゃんは泣き叫び、
娘は横で相手をしてくれないとヘソを曲げる。
「おかあさん、一緒に遊んでってば!
赤ちゃんばっかりだっこしてずるい!」
肝心の会議で発言を求められたことにも気づかず。
咄嗟にフォローしてくれた同僚のおかげで
その場はなんとかなったものの、
会議時間はただただ騒音の中過ぎていきました。
落ち込んだまま一人取り残される私。
とりあえず、赤ちゃんに授乳しようと
椅子に崩れ落ちるように座り込む。
テレビで流れているおさるのジョージにも
床いっぱいに散乱しているおもちゃにも飽きて
娘はずっと文句を言い続けている。
どんどんひどくなる赤ちゃんの泣き声と
娘の叫び声とが重なって
「もう〜!お母さん仕事してたの!
静かにしててよ!」
思わず叫んでしまいました。
母の剣幕に驚いて、一瞬黙り込んだあと
みるみるうちに娘の目から涙が溢れ出す。
あーあ、やっちゃった。
娘の泣き声を聴きながら黙々と授乳をして
後味の悪い罪悪感を噛み締める。
娘はただ私と遊びたいだけなのに。
イライラを子どもにぶつけるなんて、
母親失格。
思ったように仕事をできない憤りと
子どもたちの相手をしてあげられない罪悪感、
自分の気持ちをコントロールできない自分への嫌悪感が
寝不足で疲れきった頭と体をぐるぐる回る。
子どもたちをこんなに泣かせて、
悲しい思いをさせて仕事しているのに、
肝心の仕事でも迷惑かけてばかり。
私、なんのためにこんなに頑張ってるんだっけ。
なんでこんなにムキになって仕事してるんだろう。
子どもたちが自分を必要としてるこんなときに、
ちゃんと向き合ってあげないなんて
なんてひどい母親なんだろう。
「お母さん、どうしたの?」
娘がびっくりして泣くのをやめるまで
自分が泣いていることにも気づきませんでした。
嗚咽を始めた私に娘は、
「おかあさん、腰が痛いの?赤ちゃん抱っこしてあげようか?」
私がいつも腰が痛い、といっていたことを覚えていて、
彼女なりに考えたいたわりの言葉。
あまりにも見当違いな言葉だけど、すごくあったかい。
思わず泣きながら笑ってしまいました。
…娘の方が、よっぽど人間できてる。
腕の中には
お腹いっぱいになって満足して眠る、
小さくて暖かい、たからもの。
そっとベビーベッドに置いて、
もうひとつのたからものの横に座る。
「お母さん、つかれちゃったの。ごめんね。ありがと」
「いいよ」
そういって、ぎゅーっとして仲直り。
安定した生活ができるようになったと思ってたけど、
今の働き方ではやっていけない。
そう悟った出来事でした。
お金の安定も、時間の自由も両方ないと意味がない。
このまま精神的に余裕がない状態を続けていると
きっと家族がダメになる。
そう思いました。
ネットビジネスとの出会い
自粛していた二ヶ月は、
自分の生き方を考え直すきっかけになりました。
仕事も大事だけど、
私がもっと大事にしたいものは子どもたちじゃないの?
今は毎日慌ただしさに追われているけど
子どもたちと過ごす時間なんて、人生で見たら少しだけ。
子どもたちが必要としてくれる時間も少しだけ。
だったら優先順位が違うんじゃない?
もっとゆっくり働けるところに転職しようか。
あるいは、もう仕事するのやめてしまおうか…。
そんなもやもやを抱えながら日々を送り、
寝不足の頭で、転職、子育て、キャリアと言った言葉で
ネットサーフィンをする日が続きました。
そんな時、一つのブログに目が止まりました。
年収1500万円の会社を辞めた?
ネット起業?
月収400万?
遊んでいても収益が上がる?
最初はまったく意味がわからなかった。
また詐欺っぽい話のサイトか、と思いました。
そもそもネットビジネスって何??
起業家で一人で月収400万円なんて
怪しい商売としか思えない。
労働してお金を得るのが正しい稼ぎかた。
収入を上げるには、もっともっと働くしかない。
そんな世界しか知らなかった私には
もうほんとに全く訳のわからない話でした。
それでもブログの記事をさかのぼって読んでいくと
その人が超真面目に
真っ直ぐにネットビジネスを頑張っている、
ということはすごく伝わってきたんですよね。
とりあえず、もうちょっと知りたいし
タダみたいだし、メルマガ登録してみようか…。
と、メルマガだけ登録して寝ました。
次の日からは、送られてくるメルマガを読んだり、
空いた時間に
ネットビジネスについて検索したり
するようになりました。
世の中には、思った以上にたくさんの人が
労働することなく稼いでいることも知りました。
だんだんわかってきたのは、
別に怪しいものなんかじゃなくて、
自分が持ってる知識を売ったり買ったりすることで
成り立つものなんだな、
ということ。
そして、正しい知識を得て、行動を続ければ
誰もが同じように労働をせずに稼げるようになる、
ということもわかりました。
それでも、なかなか
やってみようかな、
という気持ちにはならなかったんですよね。
SNSやブログで自分の文章を公開するなんて、コワイ。
他人の顔色を伺いながら生きてきた私にとっては
自分の生活や思いを
ネット上で不特定多数の人に曝け出すなんて
考えられなかった。
読んで否定されたらどうするの?
炎上したらどうするの?
そんなことばかり考えて
自分にはできないと思い込んでいました。
小さい頃からの、
無意識に自分にはムリ、とやらずに諦めるクセは、
研究者になった後でも治っていませんでした。
一歩踏み出したら世界がひらけた
あるとき、ビジネスを学ぶ講座の案内が送られてきました。
まあでも、忙しいしな〜。
そう思ってメールを閉じかけて、手が止まります。
毎日めちゃくちゃ忙しいし
夜は疲れ切ってて何かをやる元気なんてない。
でも、今までいろんなことを、やろうともせずに諦めてきた。
子どもたちに、
「すぐ、ムリって言わないの!」
そう言ってたんじゃなかった?
自分はいいわけばかりして諦めたままでいいの?
……思い切ってやってみようか。
心を決めたら、行動は早かったです。
次の日には申し込んで、
メールを送っていました。
自分のためにまとまったお金を使うのは、
大学院の授業料を振り込んだときだけ。
ネット銀行で振り込み手続きをしながら、
鼓動が早くなるのがわかりました。
も、申し込んじゃった…。
教材が送られてきてからは、ひたすら
隙間時間に教材を聴いていました。
あんなに発信することに抵抗があったのに、
ドキドキしながらTwitterに初投稿してみると
思ったより怖くなかった。
最初は全く見られないから、笑
多少失敗したって全然問題ないってわかった。
Twitterの投稿も消せることがわかったので、
投稿することへの抵抗がだいぶ小さくなりました。
そして自分が発信したことにリアクションが返ってくると
すごく嬉しいことも知りました。
私が発信したことに、
誰かが何かを感じて返事を返してくれる。
それがこんなに嬉しいことだとは思いませんでした。
労働して、時間を提供することでしか
収入は作れないと思ってた。
不労所得って、株とかFXだけだと思ってた。
まとまったお金がある人しかできないと思ってた。
でも、全く違うアプローチで
不労所得を得られる方法があると理解できてからは
私の働き方の概念が全く変わりました。
仕組みは、ちょこっとやってすぐできるものではありません。
安定した収入を得られるほどの仕組みを作るまでは、
継続して、コツコツ作って積み重ねていくことが必要。
でも、一度作れば、長時間労働から解放されて
確実に未来の自分は楽になる。
学び実践して、そう確信が持てました。
しかもこのスキル、
本業でも使えるんです。
職場で長いこと放置されていた問題を
ビジネスの「型」にはめて考えてみると、
「あれ?こうすればいけるんじゃない?」
と抜けていたところが一目瞭然でわかってしまい、
簡単な企画書を作って上司に相談。
職場のみんなが、もう解決できないと諦めていた課題だったこともあり、
そのままその企画を進めていくことになりました。
ネットビジネスを学んで得た知識が
本業でも活かせることに気づいてからは、
ビジネスの学びもますます楽しくなりました。
ちょっとずつ夢中で行動したことが
結果として少しずつ見えてくると、
あのとき、勇気を出してよかった、と心から思います。
改めてこのブログのコンセプトと私の目指す未来
時間とお金の制約から自由になって
自立した幸福度の高い暮らしを手に入れる女性を増やすため、
私はこのブログで発信していきます。
そして自立して自由に生きる母が
子どもたちの明るい安心できる居場所を作り、
そんな母と過ごすことで、
幸せでのびのびと暮らしながら
子どもは自立した生き方を学んでいく。
そんな未来を作っていきます。
- 日々のささやかな幸せを感じて、穏やかに笑って過ごしたい
- 大事な人たちがやりたいことがあるとき、進んで助けてあげられる人でいたい
- 自分も周りの人も、子どもたちも豊かで幸せに笑っていてほしい
私は、これがあたりまえの世界にしたいです。
そのためには、まず自分が経済的にも時間も自由でいて、
自立した女性でいることが必要です。
日々の生活を少しずつ仕組み化していけば、
自由に使える時間はすこしずつ、作ることができます。
得意じゃないことや、作業は
外注してしまえばもっと時間は増えます。
ビジネスモデルをオンライン上に組み立てれば、
働かずとも収入を得られる仕組みになります。
私は、仕組みの力と外注を使って時間を作り、
さらに自由な時間を増やすための学びに使っています。
もっと仕組みの力をたくさんの人に知ってもらうことで、
お金と時間の悩みから解放される人を増やしたい。
雇われる生き方ではなく、自分の足で立つ生きかたを、
自分の手で、自分の幸せを作る生きかたを、
周りの人を幸せにできる強い人間である姿を、
そんな自立した母親の姿を
子どもたちに見せられるように。
そして、子どもたちがやがて
自立した生き方をできるように。
今当たり前にあり、
時にわずらわしくも感じてしまう子どもたちとの時間は、
いつまでも続く訳ではありません。
ブログを読んでくれる皆様が、
限りある子どもたちとの日々を
幸せを感じながら過ごせるように
少しでも役に立つ情報を発信していきます。
時間の余裕を手に入れる方法がわかるメルマガ
私の人生が変わったきっかけは、小さな一歩でした。
でも、勇気を持って踏み出したことで
私は新しい世界を知り、
自分の人生に未来を感じることができました。
もし、あなたが
今の自分の暮らしにもやもやしているなら、
そのモヤモヤを整理して、あなたのあたらしい世界へ
一歩、踏み出して欲しいと思っています。
メルマガでは、このブログでは書ききれない
月収500万の起業家から学んだことや
日々の実践で得た知識をお伝えしています。
- フルタイム勤務やワンオペ育児でも時間の余裕を生み出す方法
- 隙間時間を活用して効率よく学ぶためのコツ
- 仕組みや外注を使って時間を増やす方法
- 自分の人生を自分で決めるための考え方とその方法
- 短い時間でも子どもたちとしっかり向き合うためのヒント
このメルマガを読むことで、
あなたが少しでも前向きな気持ちになって
新たな世界への一歩を踏み出すきっかけになったら
嬉しいです。
無料ですので、興味がある方はぜひ登録してみてください。
長くなりましたが
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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